DOR PAPA BLOG

デザインの本質はアイデアだ。

Slander is not criticism

 

※数ある誹謗中傷があると思いますが、この記事はあくまでも一部に対する私個人の考えです。これが誹謗中傷の全てではありません。

文字人格

現在では色々な場所で自分の意見や情報を発信できる時代になり、発信した事に対してコメントを貰ったり、共感してもらったりした時には素直に嬉しいです。



例えばネットニュースなどには必ずと言って良いほど記事に対するコメント欄が設けられており、そこでは価値観の違う方々の意見を確認でき勉強になったりします。

また、SNSでは自分で仕入れた情報や疑問を発信でき、老若男女問わず様々な方からの意見を聞く事ができ、時には物事を解決まで導いてくれます。

しかし、そこで目につくのが数々の「誹謗中傷」です。

私の子供の頃は、ニュースや新聞の情報をもとに、近所の人や学校の友達と意見交換や考察したりするくらいでした。

そこで誹謗中傷の鍵になるワードは「文字人格」だと私は考えました。

やはり面と向かって悪口を言うよりは、見えない人へ文字で悪口を言う方が圧倒的に簡単でリスクがないように思えるのは否めません。

高校生時代に今思えばSNSの誹謗中傷の根源みたいな出来事がありました。

もう20年以上も前の事でやっとガラケーに「iモード」などのインターネットの機能が搭載されて「学校に掲示板」なるものがありました。

当時私は、文化祭に出るべく同級生でバンドを組んでいました。

 

文化祭前になると掲示板もどんどん盛り上がって「バンド楽しみ」「〇〇君ギター上手いよね」などの書き込みが増える一方で「〇〇は出るな」「演奏中になんか投げようぜ」「文化祭のバンドとかイラねぇ」などの書き込みも増えていったのです。

勿論学校でそのような誹謗中傷を直接言ってくる人は一人もいませんし、文化祭当日も何か投げらるといった事はありませんでした。

ネット上に書き込んだ人は必ずいますし、近くにいる人かもしれません。

しかし、そのネット上の人物は「文字でのみ形成された人格」である為その人(その人格の表現が正しいかもしれません)出会う事がありません。

 

こうして人に気付かれにくい事から、誹謗中傷が蔓延る時代が訪れてしまったと私は考えます。

それは意見か誹謗中傷か

SNSなどでニュースの記事に対するコメントを私はよく見たりコメントしたりするのですが、特に政治的なニュースや事件のニュースになると誹謗中傷のコメントが目立ちます。

自分の意見が記事と異なる場合や、コメントに対して「私はこう思う」などの意思表示として書き込むのは私は全然構わないと思います。(むしろ参考になるでありがたい)

しかし、物事に対して批判ではなく誹謗中傷が溢れているのが現実です。

その中には自己顕示欲が強く「炎上商法」という、誹謗中傷を自ら煽りエンゲージメント数や再生数を稼ぐ者が現れてしまう始末です。

 

もしかすると「誹謗中傷」「意見」のように自分の中で都合のいいように変換をしているのではと私は考えます。

 

意見とは、ある問題についての考え。(それぞれ意見を述べて議論する)自分の考えを述べて人をいましめること。

誹謗中傷は、「誹謗」~相手の悪口を言ったりすること。 「中傷」~根拠のない、嘘やでたらめを言って他人の名誉を傷つけること。

 

「馬鹿」「死ね」「キモい」と言うのは意見ではありませんよね。

相手は見えてるが、こちらは見えないと言うアドバンテージを活かした攻撃が簡単にできてしまうのも問題だと考えます。

解決策

私は単純にSNSをする事に対しても個人としての責任「身分証明」の必要があるのではないかと考えます。

勿論、個人情報漏洩などの問題があるのも理解していますが、アカウントのペナルティーなどでは追いつかないと考えるからです。

昨今では著名人が訴えて裁判を起こしたりと、行動による抑止力が破足りてきているのもわかるのですが、あくまでも起こってしまった事による対応であって、根本的な解決策とは呼べない気がするんです。

 

やはり、起こらないような環境をつくる事も大事だと私は思います。

少しでも誹謗中傷がなくなる事を私は願っています。